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ぞれぞれの新年 [老後の準備]

新年おめでとうございます。

3月11日の震災を契機にまじめに勉強しなおそうと発起、大学にもどった。
友人たちは、「どこで教えているの?」と尋ねる。
「先生じゃなく、一学生として20歳程の子供たちと机並べているのよ。」というと、あきれられた。

最初はおずおずと一人でいたが、そのうち友人ができた。
本の貸し借りからはじまり、ノートのみせあいっこ、過去問の交換、昼食をとり、車で送迎されるようになり、
ついには休みの日に待ち合わせておでかけするほど。
おばさんにはこわいものなし、教授だって年下だい!
過去の公害事件の授業のときには最前列に座っている私の方を見て
「イタイイタイ病のときは覚えておられますか?」などと確認をとるくらい。
そのとき現役学生で新聞切り抜き片手にレポート書きましたわ・・などと教えて差し上げる。
現在の環境問題にはうとくても、過去問には強いのである。


冬休みには読書10冊の目標をかかげ、おせちを煮る横でipadを開く。
紙の本とちがい、一つのデバイスで音楽や英語を聞きつつ、読書もできるので、
細切れ時間をつないで、なんとか目標を達成できた。
1月の期末テストに向け、早くもスタンバイオーケー。

元旦から高校時代の古い友人たちと電話で話していると。
「うちの親が年末手術してね、いま病院からかけているんよ。」とか
「役定になったので、子会社にうつったんよ。」とか
「50肩で寝られないほど痛いねん。」など、陰気くさい話ばかりである。
こちらが憂鬱だったころは結構イケイケだった人たちだけどね。

いっぽう、20代の現同級生の会話は
バイト、恋愛、就職、旅行ではずんでいる。
どちらと話しておもしろいかというと、むろん若者たちである。
昨今は人生相談を授業のあとに持ちかけられることもあり、
このまま大学の一角で占い相談業を開けば、かなり繁盛するのではないかと思う。

「親は田舎にもどって公務員になれというですが、私はこちらで自分を試してみたいんです・・・」
古くからある悩みだけど、今の私なら親の気持ちも現実もよくわかるな。
女の子の人生はやはり仕事と家庭の両立がむずかしいからね。
コツはただ一つ、両立できる職業を選ぶ事だよ。

自分自身、親の介護を12年もして思ったのが、「最期まで前向きな年寄りになりたい。」ということ。
不満や人の悪口をぶつぶつ言うだけの老後はつまらない。
70歳まで残り15年、価値ある生き方をしなくちゃ。
介護のために仕事もやめ、思わず専業主婦となってしまった私だもの。
義務はすべてはたしたから、
これからは私自身がおもしろく、楽しめることだけをしたい。

そんなわけで、家族に新年の誓いを発表した。
「今年から、もう 主婦、卒業します!」
夫は慌てずこういった。
「はいはい、留年しないようにね。」
うーん、見抜かれていたかな?
















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愛してるって言ってほしかったわ [NPO]

夫婦関係でも

言葉が足りないことから意思疎通になり

もめることはよくあるけど

生活費ももらっていないときは、

なんでこの妻、別れないのかなと疑問がわく。

 

 

 

バス会と東温市の関係は

当会が押し掛け妻で行政が形だけの夫に似ている。

もとより愛は希薄

関係を育てようという妻の呼びかけにもなかなか応えてもらえず

一度は冷たく見捨てられ、傷ついたこともある。

 

 

それでも路線バスという子供を育てたいという思いは同じなので

そのことに関してだけは顔を合わせ、協力しあってきた。

川内バス改善はまだ入学したばかりの状態。

無事卒業し、次の進学をさせたいという願いはあるが、かなえられるかどうかは不明。

 

子はかすがいというけれど

それだけではコミュニケーション不足は補えない。

 

私の場合、行事のたびに泊めてくれていた友人が来年3月に転居してしまうので、

以降は泊まる場所もない。

これからはもう活動を続けられないと思っている。

愛された実感ももてぬまま古い妻は去らねばならない。

 

夫に未練はないが、残る子供が心配だ。

大事にしてくれよ〜 りっぱに育てて進学させてよ〜

よけいなおせっかいだけど、

そんな言葉をだれかに託したいな。

 

 

 

 


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鈍川温泉顛末記 [団塊世代の安い旅行]

「鈍川温泉、どうでした?」
12月のバス会のあと、「温泉に一泊する」と言っていたので知人に尋ねられた。
愛媛生まれの人だったので「ひなびていたけど泉質よかったよ〜」という言葉を期待していたのだと思う。
「すみません、行ってないんです・・・」
そう答える私の表情がひくついている。

あの日、確かに鈍川へ行った。
事務局のMさんと二人、夜を楽しむための本やら、おやつやらを高島屋で買い込み、
何泊するつもり?と聞かれそうなくらいの大荷物でバスにのった。
外灯すらない寂しい山道を1時間半、気持ち悪くなるくらいゆられゆられ
ようやく今治についたら、Mの妹が車で待ち構えていた。
鈍川行きのバスは4時台でおわっており、姉思いの妹が仕事帰りに送ってくれることになっていたのだ。
それから30分、山道をゆられながら、なんとなく不安がわいてきた。
「あたし、予約したっけ???」

世の中におくれていた私だが、最近、旅館やレストランのネットクーポン購入ができるようになった。
初めての落札は東京ディズニーランドオフィシャルホテル、ペア素泊まり7900円。
娘二人にプレゼントしたら、姉が芋娘の旅費をだしてやり、仲良く楽しんできた。
今度は私の番、ということで鈍川温泉2880円を落札したわけだ。
豚しゃぶの夕食つきでこの値段、安いよね。

クーポンチケットにはすべて事前予約が必要だ。
娘がリゾートホテルにどのような予約をしたのかはよく聞いていないが
メールを出せばいいのよね〜と早わかりし、出したような気がする。
でも、そういえば、受け取ったという返事がなかったような・・・
でもあんなりっぱなHPを作っている旅館なら、ちゃんとメールで返事があるはず・・・
私、2週間前は、試験とレポート、調査もあってばたばたしていた。
すごい数のメールの往来があったから、それに埋もれていたのかもしれない。

山の中の鈍川温泉、HPとはかなり印象がちがい外見ぼろい。
でもきぅっと中身は改築してるんだよね、とまたも早合点する。
受付には誰もおらず、中から少々年配のおじさんが出てきた。
「あの、予約していたものですが。」
「は?今日は休館日ですが。予約なんて聞いとらんが。」
ネット対応のお姉さん(家におられた)に電話で確認してもらうと
「メール、ついてないですよ。予約いただいたら、かならず確認メールをいれ、予約番号をいただきますし。」
あひっ、それはどういう事でしょうか???
「今日は休館しているので、お部屋もお食事もご用意できません。申し訳ないですが、御泊めできません。」
なんと!
この山中で、予約せずに泊めてくれるようなホテルは他にあるのだろうか?
「ないでしょうなあ。」

慌ててお外の車で待っているMの妹を追う。
「すみません、どこか泊まるところ、ご存じないでしょうか??」
彼女は今治の住民、しかも顔が広いという噂だ。
「国際ホテルなら予約なしでもいけるかも?」
あわてて、愛用のipadで検索、車の中から電話してもらう。
「1泊26000円だって、どうする??」
ぎょ、2880円のつもりできたのに、26000円は手持ちが足りない。
「もぅっと安い部屋ないか、聞いてみて。」
この時、Mと私は血圧が50ほどあがり、必死の形相だったと思う。


「あるって素泊まり9800円、これでいい?」
普段の私たちなら9800円はすぐには決断しがたい高額だが
26000円のあとなので、大バーゲンみたいな気がした。
「いい!それ、決まり!」
かくして、鈍川ではなく、今治国際ホテルに一泊したのである。

駅前の焼き鳥屋で腹一杯たべ(今治は鶏のばりーさんが有名)
広々とした温泉に朝夕2回もはいり、バス会以上の鈍川騒動の疲れをいやした。


チケットはMの妹に進呈した。
言い訳になるが、あのころ出したメールはいろんなところに届いていなかったことが判明した。
バス会打ち合わせの東温市担当者にも!
粗忽だけではすまされない。
メール出したあと、電話で「メールついてますか?」なんて確認いれたほうがいいのかもね。

クーポンサイト ポンパレ





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Dr.Cho [人生勉強]

チョウ先生、ここにはたくさんいるからなあ・・・
あちらのチョウ、こちらのチャンというほど、韓国人にはありふれた名前の先生をさがし
あちこちの教室をうろうろ。
学生復帰、はじめての招聘研究者の授業はまずは教室探しから。

環境経済学、資源経済学とよれよれしながらも順調に進み
ようやく海外研究者の講義を直接受ける決心がついた。

先生は韓国育ちだが、ナンバースクールに行きはぐれ、将来を悲観していたそうな。
かつての日本もそうだったが、韓国は学歴差別がひどく、ナンバーワン大学をでないとよい人生をおくれないとか。
しかし、アメリカに行き、一所懸命勉強したら、なんと世界に名を知られる研究者になり、よいポストよい収入をもらい幸せになれた。
今でもアメリカンドリームはありますよ、若い人はためしてみなさい。
そんな前ふりがあり、私はもう若くもないが、心がときめいた。
手をあげて、「先生私でもはじめられますか?」とお聞きしようとしたら、隣のもさっとした男子生徒にさきをこされた。
だが、質問は私たち二人のみ、他の生徒は日本の就活に悪影響を及ぼすのではないかと臆病だ。

朝5時半起床、7時から仕事、5時半帰宅、1時間水泳、9時就寝。
すばらしい生活だ。
まわりにいる教授が「私なんか夜九時に帰宅準備だ。」とぼやいていた。

今日は二日目、公開授業。
我が家の芋娘を誘ってみたら、二つ返事で都合をつけてきた。
なにしろ、口からとびだしそうなほど海外留学にあこがれている。
チョウ先生の英語はものすごくわかりやすく日本人向き。
英語のできない娘でも30%くらいは理解できるだろう。
これでついていけないなら、留学じゃなく、地道に働いて時々旅行したらいい。
それそれに向いた海外体験があるもんだと悟るかもしれない。




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雪化粧 [食]

いもたこなんきんが大嫌いな私に芋好きの娘がいる。
じゃがいも、さといも、さつまいも。
水っぽくてもごじっていても、うまいうまいと食べ尽くす。

最近はさつまいもの安納芋がお気に入りだ。
石焼芋専用鍋(韓国製)で2時間ほどじっくり焼くと、蜜がたらりとでてきてしぼむ。
中を割ると上等のスイートポテトのような香りと色が現れる。
ねっとりねとねとした部分を娘はスプーンですくいとり、なめる。
目は半開きで酒に酔ったみたいにうっとり。
安納芋ならなんでもといいたいとこるだが、この芋、でき不出来の差がはげしい。
大きく太く、端が枯れているのがよいそうで、ネットで指定買いしている。


昨晩のこと、この芋娘がにこにこしながらスーパーから帰ってきた。
なにごとかと問うと「当ててみ?」
買い物袋が異常に膨らんでおり、さてはおやつの安売りでもあったかと思う。
おつかいにでると、必ず自分用のおやつを内緒で買っていることをちゃんと知っていたからである。

しかし、内緒のものならば「当ててみ?」とは言わないはず。
「アイス?」と鋭く問う。
「こんなに寒いのに・・違うわ。」
「母さん用に缶チューハイ?」
「ちゃうわ、親が喜ぶだけやんか。」
以前にこんな顔をしてたときは、たしか福引きで1000円当てたっけ。
「ほら、これ、雪化粧、みつけた。」

真っ白でまんまるなカボチャをとりだした。
「あんたの顔より大きいなあ。」
「重いからどうしようかと悩んだんやけど、めったにないから思い切った。」
このあたりではあまり見かけないかぼちゃなのである。
たまに、八分の一カットで売っていることもあるほど、高いかぼちゃだ。

「これ晩ご飯にしてね。」
「煮る?揚げる?」
煮崩れしにくいしっかりとした食感で甘みが強く、どんな料理でもうまくできるかぼちゃだが。
「両方。」
「で、白菜は?」
「そんな重いもん、これ以上は持てんから買わんかった。」
たしか、白菜を買ってきてと頼んだのに、かぼちゃだけとはこれいかに?
「お鍋ができないよ。」
「だから、かぼちゃだけでいいって。」
うっとりと白いかぼちゃをなでまわす。
その味を想像しているのだろう。

母親で調理人の私が苦手なものを、自分が好きだからといって
夜メニューまで変えてしまうのはいかがなものか?
いもたこなんきんは女の好物と昔の人は言ったらしい。
娘は女らしい女なんだろうねえ。











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延命したいですか?? [人生勉強]

このごろ、毎日のように服喪中、年賀欠礼の挨拶状が届く。
父母、祖父母、だいたいが85歳以上で、最高は99歳で亡くなったとのこと。
82歳なら若いほう、皆さん長生きである。

私の母は、74歳で亡くなった。
重い病気だったので、しかたないとは思うものの
ちょうど我が子が中学高校のころを介護に追われ、
参観日に行った記憶がない。
また、私も若く、収入も少なく、
あくせく毎日をいそいでいたので、余裕がなかった。
「親が弱ってきてね、時々実家に帰って一緒にご飯たべているのよ。」などという友人の言葉に
嫉妬をおぼえつつも、亡き母への言葉にやさしい気配りがなかった己を反省している。

日本老年医学会で、終末期の胃ろう治療をやめることを選択できるようにしようという提案があったそうだ。
胃ろうチューブで栄養をおくりこんで延命されることをのぞまない患者にはやらないということだ。
栄養をいれなければ、自然にやせ、だんだんと死に近づく。
本人の意思表明が事前にあればそのまま自然に死なせてもらえる、それも権利だという主張である。

現行では、医師として、できる治療を施さず、延命できるのにしないということはできない。
しなかったら、かえって訴えられることもある。

胃ろうで栄養を送り続けている患者は
たとえ意識がなくても、身体はつやつやしている。
また胃腸が丈夫なら大小便も普通にでる。
自発呼吸があれば何年も生きられることもあるそうだ。

別れがたく名残惜しい家族の中には、その身体がこの世にあるだけでもうれしいという人もいるから
本人の意思表明ははっきり文書化して残しておかねばならない。
本人が元気なときにそういっていただけでは、あとで争いになるからだ。


私の母もその状態で半年過ごした。
朝夕、家族が交替で見に行ったが、この治療をことわるかどうかでもめた。

なじみの公立病院は早々に退院させられており、脳腫瘍だのに脳外科のない老人病院に入っていた。
以前から母は無駄な延命はいやだとよく言っていたが、文書などはなにもない。
私は意識のあるうちは、食事を介助するため、往復5時間の道のりを病院まで通い続けた。
意識がなくなると「集中管理しやすい病室にかわってほしい」と病院側に言われた。
集中管理しやすい病室というのは、つまりは、チューブにつながれ意識のない患者たちの大部屋であった。
細長い部屋に20人が焼き鳥の串のように並んでいた。
そんな部屋が他にもう一つあるらしかった。

食事も投薬もチューブ類をとおしてなので、看護士さんの出入りも定時見回りのみ。
異常がなければとても静かな部屋だ。
ベッド間は布団が足れているので、50センチほどのすきましかない。
見舞いにきてもすわる椅子もなく、花をかざる場所もない。
たったまま顔をみて、手を握り、一声かけて帰るしかない。
眠り人形の世話をするように、身体をふき、口中を清掃してくれるのをみていたければ、廊下にでないといけない。
清潔に手入れしやすいよう、服は着せず、浴衣をかぶせているだけだ。

こういう状態になると、病院への支払いはとても安い。
私立なので、シーツ代くらいはかかるが、部屋代、医療費ともに保健でまかなわれるので、負担はない。
しかし、母は2つの無制限の生命保険にはいっており、1日に3万円の入院費がもらえるのだ。
長年、無収入の専業主婦だったが、意識がなくなってから、お金を稼ぎだしたのである。
残念ながら、自分が得たお金を自分で使うことはできなかったけど。

その上、生きていさえすれば年金も入る。
若い頃、大きな会社で数年働いたことがあったので、年金はちょっとした小遣い程度にはあった。

母の意思どおり、胃ろうや特別な延命治療をことわれば、そのうち自然に死ねるとわかっていたが
「わざわざ治療を断る必要はない、意識あったときほど手間もかからないんだから」というのが家族会議の判断であった。

焼き鳥串状態の母をおばあちゃん子の娘たちには見せたくなかったので
私ひとりで通っていたのだが、
ある日、
長女が一人で病院へ行って目撃してしまった。
あとからほかの部屋の人に
「おばあちゃん、おばあちゃんって何度も呼びかけてたよ。薄目でもあけてくれたらと私まで祈りたくなった。」と言われた。


医療保険財政も厳しくなってきている。
望まない患者に強制的に胃ろう処置をすることは合理的ではないという意見もあるにちがいない。
しかし、保険と年金がからむので、本人の意思確認が明確でないかぎり、家族はやめる判断がつきにくいだろうと思う。

この問題を議論すると、かならず障害児/者の問題にまで広げる人がでてくる。
意識なく、胃ろうで命をつないでいる人がたくさんいるからだ。
「つまりは意識のない人は生きてはいけないってこと??」
三段論法で、「意識がなくても生きる権利はある」という話に持ち込まれることもある。
そのあたり、きちんとわけておかねばならない。


母は老人性の認知症ではなかったが、脳の萎縮がはげしく、
意識がなくなる半年前でも、もはや字をかくことはできなかった。
こういう病気による認知症の場合はどうするのかも、議論の端にのこしてもらいたい。

私自身は早々と自分の意思を書面にのこしておきたいと考えている。
自発呼吸がなくなったら、人工呼吸をするのもお断りするつもりである。

延命医療と臨床現場―人工呼吸器と胃ろうの医療倫理学

延命医療と臨床現場―人工呼吸器と胃ろうの医療倫理学

  • 作者: 会田 薫子
  • 出版社/メーカー: 東京大学出版会
  • 発売日: 2011/07/23
  • メディア: 単行本














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京都の紅葉 [NPO]

ようやく寒くなってはきたが、紅葉には間に合わず、
青葉からそのまま茶色く枯れてしまった京都の名所が多い。
「地球温暖化の影響ですかね〜」なとど、地元の人は言う。
それでも性懲りもなく、私は昨日も街ブラをしてきた。


これからは市内が見頃と
電車の駅の紅葉マップに書いてあったが
それほどでもない感じ。
やはりどこも赤がさえない。
黄色いつわぶきや、さざんかとのコーディネートでなんとか見れる状態だ。

京都は日本一人工的な街だ。
何千年もかけ人の手で作り込んできた街。
木一本も自然のままには生えていないのだ。
人に見られることを意識し、自然にみえるよう、手入れしまくっている。
でも、気温や紅葉の色までは造作しようもない。
これがつまりは人類の限界なのかも?

着物パスポートというイベントをしている。
着物で訪れた人に入場料や食事を優待するというもの。
そのせいか、自前、レンタルをとわず、やたらと着物姿が多い。
茶色い紅葉でも着物との取り合わせは抜群である。
せっかくの観光で赤い紅葉を見られなくて、それはそれで京都に来たなあ!!と思えるだろう。

京都駅直結、大階段のクリスマスイルミネーション
お寺や神社にもぼんぼりや提灯
もちろん紅葉にもライトアップがあり
夜の演出が美しい。
まあ、よいか、さすが京都だ。




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あの世からのコンタクト? [老後の準備]

私の年齢ではもう、あまり新しい友達ができることはない。
出会えるチャンスも少ないし、見知らぬ人と一から友情を積み上げるのは面倒くさい。
心を許せる長年の友人たちと、順繰りに交遊していくというのが通常である。

中年になって大学に行きだした私は、年齢も生まれ育ちも何一つ共通点のない人とも出会うようになった。
勉強しにきている、資格をとりに来ているといっても、そこはやはり女性同士、ご飯を食べたりお茶を飲んだりして仲良くなることもある。
なかには勉強よりも友達をつくりにきているような人もいるようだ。

新学期がはじまり、多少なじみができると教室移動をしながら言葉をかわすようになる。
先日来、たてつづけに交際を申し込まれた。
交際といっても男女の中ではないので、「メルアド交換してください。」
「車で送ってあげるわ。」
「この本おもしろいから貸してあげる。」
「あたし、お菓子作りが好きなの。一つ食べてみて。」

たまには住所氏名メルアドを書いた名刺を手渡してくれる人もいる。
先日来、たてつづけに交際を申し込まれた。
若い人も入れば、小学校の教員を退職されたようなかなり年上の人もいる。
そのどなたもが下の名前を「えみこ」さんというのに、驚いている。

年配ならまだよくあるが、30代ではめずらしいだろう。
かなり古風な名前だからだ。
しかも「み」が「美」という漢字である。

たんなる偶然といえばそれだけだが、実は私の亡母の名前が「えみこ」なのだ。
「み」を『美」と書く。
大学という大きな場で、積極的に交際を申し込まれた相手がすべて「え美子」さんというのは、偶然を通り越している。

母が亡くなる前、5年間は、通いではあるが十分介護をしたと思う。
娘の介護に「ありがとう」と言って、満足して死んでいったはずである。
だが、なにか言いたいことができたのだろうか?
「え美子」さんたちを通じて、何か伝えたい思いがあるのだろうか?
あの世から、母はどんな文句を言いたいのだろうか、などと気がかりだ。

迷信、蒙昧だが、偶然すぎて、なんだか気味が悪いのだ。
交際を申し込まれた相手には悪いが、その名前の一致が気にかかり、なかなか良い返事ができないでいる。

私はその場に居合わせた誰とでも、スムーズに会話することができる。
だから、あえてメルアド交換し、一緒にランチを食べる友達にならなくてもよいのではないか。
そんなことをぐずぐず思いつつ、返事をあいまいにぼかしている。
いくつになっても子供は親がこわいものである。








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キャラメル [食]

昨日、家族でアイスクリーム工場に行った。
夏の売れ残りなのか、いつもより種類が多い。
めいめい一箱ずつ好きな味を買うことになった。
夫はバニラ、娘たちはチョコ、私はキャラメル味だ。
「おかあさん、なんでもキャラメル味だねえ。」
「え、そうかなあ??」
「そんなにキャラメルが好き?」

そんなわけではなかったはずだが、そういえばケーキでもなんでもキャラメル表示のものを好んで食べている。
おかしいなあ、甘いものより塩味おかきが大好きなんだけど。
そういいながら、ふと思いだしたことがある。



子供のころ、おそらくまだ幼稚園にもいっていないころ、母につれられ、毎月神戸の須磨寺にお参りしていた。
わざわざ電車で行っていたが、昔のことなので、子供運賃は無料だったにちがいない。
「おだいっさんの日」と呼んでおり、毎月21日だったのだろう。
源平の合戦場となった須磨寺の奥には平敦盛の笛塚などがあり、ひっそりしめっぽい空気が漂っている。
母の傍を離れない兄や妹とは違い、私は一人でふらふら縁日を探検、それが楽しみだった。

喧噪の中、母は長時間手を会わせて拝む。
お参りがおわると今度は別の石段をおりていくのだが
その陰に、むしろをひいて、二人の男の障害者がいつも座っていた。
詰め襟の白っぽい軍服ふうな服装で、一人は片方の足が根元からない。
残りの足にはゲートルを巻いていた。
やせてくぼんだ顔つきをしており、少々乞食くさいにおいがした。

もう一人は片目が白く干上がっており、片腕を三角巾でぶら下げていた。
二人はいつもだまったままで、アルマイトの皿を前に座っていた。

「傷痍軍人」というらしい。
戦争で足をなくし、腕をなくし、おそらく家族もなくしたのだろう。
服もゲートルも三角巾も薄汚れていた。
近寄るのもこわいのに、母はいつもこう言うのだ。
「さあ、これを兵隊さんにあげておいで。」
子供ひとりひとりに10円玉をにぎらせ、さあさあとせかすのだ。
お金をあげるのは私たちなのに、「ありがとう」と言ってお金をいれなさいと言うのだ。

くさいしきたないし、なんだか不気味だし。
楽しいおまいり気分が台無しだ。

あの兵隊さんたちはお国のために戦って怪我をしたのだと、母は言った。
だから私たちのために戦ってくれてありがとうと言わなくちゃいけない。
ただの乞食にお金をあげるのとはちがうのだ。
「そんなん、もう直っとんちゃうん?」
私は、戦争が終わってもう15年もたつのにまだ働けないなんて、なまけているだけちゃうか?と考える。

早々に10円をいれてきた二人の兄妹を横目に、私はあくまでも抵抗するが
母はそれがすむまで帰ろうとは言わない。

しぶしぶちかづき、息をとめて、10円玉をつまんで、高い位置から皿に落とす。
うまく落とさないと外へはねて、かがんでひろわないといけなくなる。
コトン。
ああ、今日もうまく落とせた〜と思ったら、がばりと兵隊さんが立ち上がった。
ぎゃーっと声をあげて逃げる私。
兵隊さんは両脇に松葉杖をいれ、まさかのスピードで追いついた。

「待って。待って。」
母が何事かと来てくれた。
「いつもありがとう。
毎月来てくれるから、今月もと思って待っていたんや。
これ、お兄ちゃんたちと食べて。」
一番小さい10円の箱入りの森永ミルクキャラメルだった。
それも3箱!

胸のポケットにはいっていたせいか、じんわり暖かい。
母は言った。
「まあ、用意して待っててくれたんですか?」
「いつもいつも、ありがたいなあと思うてたんです。
御礼したいと思うたけど、なにがいいかわからんので、キャラメルやったら食べてもらえるかなと思いました。
戦後もうだいぶたつのに、まだよう働けんで情けないことです。
いつまでもこんなことしてと言う人もあるのに、
お子さん3人ともやさしうしてくれて。ええ子たちですなあ。」

私は、なんだか、穴があったら入りたい気分。
母はまだ帰らない。
「そんなお体では、なかなか仕事もみつからへんの、当たり前ですわ。」
「はあ、僕は足、この人は目も利き腕もだめなんで、二人で助け合って暮らしてるんですわ。」
「私も兄がシベリアからなかなか帰ってこれなくて、心配しました。
つらいこともあるけど、お互い、がんばっていきましょう。
ほら、あんたら、御礼は?」

帰り道、兄と妹はさっそくキャラメルをほうばる。
私もといいたいが、あの汚い胸ポケットの中にいたキャラメルかと思うとどうしても口にいれる気がしない。
だいたい、おかきは好きやけど、甘いものなんかきらいやし・・・
とうとう、そのキャラメルをこっそり妹にやってしまった。

その後も母の須磨寺詣ではつづいたようだが、子供たちが幼稚園にあがり一緒にいく人はいなくなった。
ずいぶんたってからふと思い出し「あの傷痍軍人さんは?」と聞いたことがある。
「身体壊してお寺には出て来れんようになりはったらしい。
やっぱりなあ、あんなに大きい怪我するとあちこち悪なるんやな。」

私は悪い子やったなあ・・・と、つくづく思った。
キャラメルは紙の箱にはいってたんやし、セロフファンも破れてなかったし。
なんも汚くなかったのに。
食べてあげたらよかったなあ。
あの人にとっては10円のキャラメルなんて、贅沢な高いもんやったかもしれへんのになあ。

大反省したころから、すこしずつ、甘いものを食べれるようになったようだ。
今、キャラメル味を好んで食べているのは、あの日の森永キャラメルの償いかもしれない。

娘たちは傷痍軍人という言葉も知らない。
多くの方はもはや亡くなっているだろう。
昭和の時代の思い出である。




























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美智子様 [人生勉強]

滋賀大学の授業でグループでレポートを書くようにと宿題がでている。
「天皇制と民衆について」すごいタイトルすぎて、どこから手を付けてよいのかわからない。
グループの一人は年配の女性で、
「私は天皇がこられたときのことを覚えている。あれもこれも知っているから一人で書きます。」と、のたまわれた。
えっ?グループで協力、分担するんじゃないの??
あとのメンバーはぴよぴよ鳴くばかりである。

私は一晩熟考し、翌朝一番、県庁へ電話してみた。
すると県政資料室には、これまで天皇が行幸されたすべての資料がそろっているという。
さっそく見せていただくことにした。

図書室のようなつくりで、奥のほうにはきちんと整理された膨大な資料がある。
開架方式ではないので、担当の方が天皇巡幸に関する資料を抜粋して選んでおいてくれた。
明治時代の資料は、私には古文書ともいえるもので、読みにくいこと読みにくいこと。
その上、紙質も薄く、心してめくらないとよれてしまう。
一冊目、半分ほどでなんと大津事件の記録に遭遇した。
ロシアのニコラス皇太子遊覧見物の最中に津田巡査が切り掛かったという大事件である。
場所は京町、今いる県庁のすぐ近所の街道筋。
高校時代の教科書では、びわ湖のほとりをぶらりと観光中という記述だったが、まったく違う情景である。

頭骨にたっする深い2本の傷で、さぞや大出血だったことだろう。
すぐお付きのロシア侍医の手当をうけた。
日本側は有栖川宮も先導同行、前日は京都御所で天皇も歓待していた。
当時ロシアは大国であり、外交問題になれば大変だ。

犯人は西南の役の闘士、勲章までもらった警官であり、それなりの論理と覚悟がある。
明治24年5月11日、まだまだ明治維新の爪痕が残っていたころのことだ。
これをきっかけに街頭で異論各論演説する者もでてきて、大津市内は騒然とする。


最初はしぶしぶ読んでいた資料だったが、ここまでくると俄然おもしろくなってきた。
それにしてもこの記述、臨場感あふれ、緊迫した様子が伝わってくる。

ロシア勢は神戸に軍艦をのりいれており、皇太子一行はいったん京都の旅館に戻ったものの
13日には停泊中の軍艦内にもどり、19日にはロシアへ急遽帰国してしまった。
このとき、天皇も心配して神戸まで見送っている。

平成の行幸はというと、平成7年と20年の二度。
こちらはカラー写真もたくさんあり、大変読みやすい。
日本が豊かになり、お出迎する側も準備おこたりないが、
あまり気を使わせぬようにと、行幸正式決定はわずか数日前である。

あちこちめくっているうちにふと気づいたことがある。
3日の予定だと天皇陛下は2着のスーツ、美智子様は3着のスーツ。
美智子ファッションはデザイナー植田いつ子さんの特製である。
手をふっても華奢な肩が目立たぬようにマント付きだ。
平成7年と20年、実は同じ一着を召されているのだ。
なんという物持ちの良さ。
また、13年後も同じスーツが入るほど、体型を維持されていたというのもすごい。
ブローチ、帽子は違えど、イヤリング、靴はほぼ同じ組み合わせだ。

日程はこまかく区切られ、ほぼ1時間毎に移動されている。
行き先それぞれにふさわしいお言葉をかけ、住民ともコミュニケーションあり。
大変なハードスケジュールを連日こなしている。

美智子様の人生は山あり山あり、谷あり谷あり。
いじめ中傷も多かったのに、耐えてこの笑顔。
えらい人やなあと感動する。



かつての行幸は天皇陛下お一人のことが多く、
皇后がクローズアップされだしたのは美智子様になってからである。
戦後日本を変えるために、時代がこの方を必要としたのかもしれない。

昨今は両陛下とも体調がおもわしくない。
今後は行幸もせず、もうゆっくりと休んでいただきたい。
皇后さまと子どもたち

皇后さまと子どもたち

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 毎日新聞社
  • 発売日: 2008/10/11
  • メディア: 大型本


















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